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体験入学日程一覧
The Future is in Our Hands
専門学校ヒコ・みづのジュエリーカレッジを経て、晴れて社会人として働き出した卒業生たち。
「時計」というキーワードで、自分たちの未来を開拓していく卒業生に話を聞きました。
大沢 利恵さん(2002年卒)
オーデマ ピゲ ジャパン株式会社
修理会社に7年勤めた後、「1つのブランドのプロフェッショナルになりたい」とAP(オーデマピゲ)に転職した。「次の職場はAPしかない」と思っていたという。技術専門職としてずっと働けること、自社ムーブメントがあり、スイス本国での研修制度が整っていることなどがその理由だ。既にスイス研修には4回行った。通訳なしの英語での研修。決して「ご褒美」ではない厳しい研修だが、参加者一人ひとりの能力に合わせたプログラムが組まれているというきめ細かさからも、技術者を大切にする社風がうかがえる。
APでは、オーバーホールも修理も、1人の技術者が1本すべてに責任をもつ。しかも、一度携わった時計は、次の修理の際も同じ技術者に「返って」くるという。「再修理は喜ばしいことではないですが、前回自分がどんな修理をしたかを振り返れるので、勉強になります」。自社ムーブメントならではの難しさもある。「量産ではないので、一つひとつ誤差があるんです。だから調整して削ったり、他のパーツとのバランスを見たりと、非常に手間がかかります」。でも、その難しさこそ仕事の醍醐味だと大沢さんは言う。集中して集中して、やっと仕上げたときの達成感は何物にも代えがたい。
APに移って10年、経験を積むほど「初めて出会う不具合」は減ってきた。だから経験を重ねた今初めて出会う不具合は、必然と難しい修理が多くなる。想像力を駆使して不具合の原因を推測し、昔の資料をめくって仮定を立て、仲間に相談しながら期限内でトライ&エラーを繰り返す。原因が解明できたときは、仲間と喜びを分かち合う。
「APに入って、改めて時計って難しいなと思った」と言う大沢さん。だからこそ、気を抜かず真摯に目の前の“1本”に向き合う。彼女の目指すゴールはまだ先にある。
三木 正弓さん(2013年卒)
ブライトリング・ジャパン株式会社
時計業界を目指すきっかけとなったのが、社会人になって購入したブライトリングの時計だった。その歴史や技術について知れば知るほど興味がわき、ついにはヒコへ。卒業後、念願かなって入社し、現在はスタジオ・ブライトリング大阪に勤めている。
「ブライトリングには独自の教育システムがあり、1年目はクォーツ時計、2年目は3針時計のオーバーホールなど、毎年ステップアップしていきます。当初は先輩方に頼ることが多かったですが、年々技術が上がり、仕事の幅が広がってきました」。素早く自分で判断できるようになったことがスピーディーな作業にもつながり、より複雑な時計を手掛けられるようになったという三木さん。
「印象深いのは2018年12月に受けた1段階難しいムーブメントのトレーニング。思えばブライトリングとの出会いは、社会人になって購入した一本の時計でした。『モンブリラン』という時計で、搭載されているムーブメントは独特なもの。学生時代も就職してからも自分で触ることができませんでした」
しかしそのトレーニングを経て、ついに「モンブリラン」を手掛けられるようになったのだ。「私の未来を変えた宝物の時計を、18年経ってようやく自分で修理できるようになったのは感慨深いです」。
「夢がかなって幸せ」「オーバーホールを担当したお客様の時計が元気になるのがうれしい」と三木さんは仕事にたくさんの喜びを見出している。それもヒコでしっかり学んだ技術の基礎があるから。「今思えば、学生時代にもっと失敗しておいてもよかった。失敗から学ぶことはとても多いですから。学んだことは社会に出たときに必ず役に立ちます」
今後も技術を磨き続け、ブライトリングの技術者として、ひたむきに一つひとつの時計と向き合っていく。
國府田 和志さん(2014年卒)
株式会社カミネ
神戸で100年以上の歴史を持つ高級時計宝飾店のカミネに勤める國府田さん。入社して5年、販売スタッフとして店頭に立っている。ウォッチコースの卒業生のほとんどが修理職に進む中、國府田さんは「就職は販売の仕事しか考えていなかった」という。
入学当初は修理職を目指していた。志向が変わったきっかけは、接客のアルバイトだった。「コンビニのバイトでしたがお客様と話すことが楽しくて、接客が向いていると思ったんです」。おしゃべりが好きで明るく人当たりのいい國府田さんにとって、この選択はごく自然なことだったのだろう。
3年生の夏、時計販売店を見学して、第一志望に絞ったのがカミネだった。「取り扱うブランドの数が圧倒的に多いこと。そして展開する5店舗それぞれで揃えるブランドが異なる珍しい形態をとっていること。また独立時計師や時計解説者を招いてのイベントなど、他にはない特長に惹きつけられました」と当時の思いを語る。現在は本店であるトアロード店に勤務。販売兼修理担当として、店頭でできるバッテリー交換などの簡単な修理は國府田さんが行っている。
「他のスタッフから見積りで出てきた修理内容について尋ねられる場面もあります。その作業がなぜ必要かをきちんと説明できれば、お客様もご納得していただけるんです。販売の仕事でもヒコで学んだ時計修理の知識はとても役立っていますね」
高級時計の業界において20代のスタッフはとても少ないのが現状だ。「まだ若い私がお客様に信頼していただくためには、知識が不可欠です。そのためにも常にアンテナを張り巡らして情報を吸収し、接客に活かしたいと思います」。謙虚かつ真っ直ぐな言葉に、國府田さんの熱い思いと決意があふれていた。
荻田 彩さん(2016年卒)
ブルガリ ジャパン 株式会社
全国から届けられるブルガリの時計修理を手掛ける荻田さん。彼女がこの仕事に就くきっかけは、別の時計の販売職に就いていた頃、修理を断られて残念そうに帰っていくお客様の姿を見たことだという。「直して使いたいというお客様がいらっしゃる以上、責任を持ってその気持ちに応える。そんな仕事がしたかったんです」
「ブルガリのような有名ブランドで働くとは全く想像していなかった(笑)」という荻田さん。だが、仕事で日々ブルガリの時計に触れるうちに、すっかり魅了された。「もともとがジュエリーブランドということもあって、とにかく美しい時計ばかり。デザイン性も色合わせも本当に素敵で、まるで芸術品のよう。見たことのない時計に触れるたびに、いつも感動しています」
仕事上でお客様と接する機会はないが、「修理したら、また喜んで使ってくださるんだろうな」と、常に想像しているという荻田さん。今現れている不具合を直すだけでなく、「この先数年、故障も狂いもなく快適にお使いいただけること」が作業の目的だ。だから「すぐにまた修理に出す必要がないように、少しでも異常があればパーツを交換しておくなど、細部まで目を配ります」。ブルガリジャパンでは、スイスで研修を受けた「トレーナー」と呼ばれる技術者が全ての修理品の仕上がりをチェックし、規定の水準に達しているかどうかをジャッジしているという。そうした品質への高いこだわりが、社内の技術者たちにも深く浸透している。「こういう環境で仕事ができるのは恵まれているなと思います」
荻田さんの今の目標は、「とにかくブルガリの時計ならどんなものでも直せる」まで技術を高めること。彼女のモチベーションを支えているのは、見えない「愛用者」への思いだった。
渡部 洸士さん(2016年卒)
株式会社 ケアーズ
主に70年代以前に作られた機械式時計のオーバーホールが渡部さんの仕事だ。同じ時計でも、使われ方や以前の修理内容によって誤差が生じるため手間はかかるが、そのつくりに感心することもしばしばだという。「磨き込まれた部品一つにも、昔の見知らぬ職人さんの上質な手仕事が見えるようで、うれしくなってしまいます」。扱う時計の美しさも、アンティーク好きの渡部さんを魅了する。「自分の何倍も年を取っている時計のデザインが、逆に新しく見える」のだという。
「『古くて良いものは、歴史からの借り物だ』という言葉がある」と渡部さん。自身も、手掛ける時計を次の世代に送りたいという思いで仕事をしている。時計に命を吹き込む渡部さんの仕事が、貴重なアンティーク時計の歴史をつないでいく。
矢羽田 圭子さん(2006年卒)
株式会社 ウオッチラボ
「長く続けられ、ステップアップしていける仕事」として、技術職を目指しました。成長するためには、まず現場に出るような会社をと思い、就職活動中にウオッチラボを知り、「ここしかない!」と熱望しました。ヒコに入った当初は機械に疎かった私ですが、就職して、あっという間に10年目に入りました。当社にはヒコのOBも多く、先輩たちに助けられてここまで来ることができました。日々の仕事の内容は大きく変わりませんが、キャリアを重ねていくうちに、その中でも新しい発見があり、積み重ねの大切さを感じます。今の目標は、会社の役に立てることと、自分のやりたいことのバランスを考えつつ、今より技術力を上げて頼られる技術者になることです。これからも、この仕事をずっと続けていきたいと思います。
小泉 雄嗣さん(2009年卒)
共栄産業株式会社
「共栄産業は修理専門会社。メーカーと違い、いろいろなブランドの時計の修理に携われるところが魅力ですね」と語る小泉さんは入社11年目の中堅ウォッチメーカーだ。
機械式時計、複雑時計、アンティークなど、さまざまな時計の修理を1日に3~4本こなすという小泉さんが、一番やりがいを感じる修理は、伝票に「なんとか直してください」「想い出の時計なので……」といったお客様からのコメントが書かれていたとき。「そんな時計を受け取ったときは『よし! やってやる!』って気合が入るんです。私たちが扱う時計の価値は、決して値段だけではなく、お客様の想いがどれだけ詰まっているかということだと思います。裏蓋に『~記念』や『◯◯to◯◯』など彫ってあったりする。まさに想い出そのものじゃないですか。無事に修理が完了してお戻しする際は『これからも頑張ってこいよ』と心の中で声をかけています(笑)」
一生勉強できる時計の世界。いくつになっても自分次第でやれる仕事が増えていく、とてもやりがいのある仕事だと語る小泉さん。今日もお客さまの想いを受け、仕事に取り組む。
野村 晶雄さん(2007年卒)
株式会社 ウォッチ・ホスピタル
勤務する12人の時計修理技術者全員がヒコ出身という時計修理専門会社「ウォッチ・ホスピタル」。そこで技術部長を務める野村さんは、大手修理専門会社、外資系時計メーカーなどでキャリアを積んだベテランウォッチメーカーだ。今となっては大所帯の技術センターだが、野村さんがウォッチ・ホスピタル入社時、技術者は2名だけだったという。「当時はめちゃくちゃ忙しかったですね。それこそ夜も帰れないくらい無我夢中で働きました。その甲斐あって今では技術者も増え、店舗も2店舗増えました。4~5年で大きく成長していく会社を、肌身で感じることができたのは大きな喜びです」
修理する時計の割り振りも野村さんの大事な仕事。技術者の経験や技量に合わせて割り振っていくのだが、その技術者を現場でどう育てていくかを念頭に置いて行っているという。「技術レベルは11人全員違いますからね。次のレベルにステップアップさせるにはどの作業をやらせればよいかを常に考えています」。全員が志を持って仕事に臨めるように仕事内容だけでなく、快適な職場環境作りなどにも気を配っているという。
野村さんが時計の仕事に就こうと考えたのは大学生のとき。もともと手先が器用だったので、手の仕事がしたいと思ったのがきっかけ。「モノを売るというのではなく、自分の技術力で職人として働くという世界に魅力を感じました。形見の品など、取り扱う際はとてもプレッシャーだったりしますが、やり遂げてお客様に喜んでもらえるととても嬉しいですし、やりがいがありますね」
お客様に「またウォッチ・ホスピタルに修理を依頼したい」と思ってもらえるよう、誠実に仕事に取り組むことが大事と話す野村さん。会社成長の所以を、真摯に仕事に臨むその姿勢に見ることができた。